正倉院文書調査

昭和五十一年度の正倉院文書調査は、十月十八日(月)より二十三日(土)までの六日間、例年の如く奈良の正倉院事務所に出張し、その修理室に於て原本調査を行なった。次にその調査の一端を報告する。
 京都国立博物館の守屋コレクション中にある「造寺料物注文断簡(紙背ニ写経料紙充帳アリ)」一通は、すでに昭和十二年五月に旧国宝に指定され、『守屋孝蔵氏蒐集古経図録』にも図版が掲載され、また最近では『重要文化財』22、書跡・典籍・古文書Vにも収載されて、かなりよく知られた正倉院文書である(『大日本古文書』補遺の編纂当時は、本所に知られていなかったようで、同書には収められていない)。そしてこの「造寺料物注文断簡」が「造仏所作物帳」(天平六年に完成した興福寺西金堂の造営記録)の一部分であることも、すでにわれわれの知っている範囲でも、二三の人は気づいておられるようである。しかしこれを調査し、断簡の所属を考えて発表されたということをまだ聞かないので、この断簡と正倉院文書の原本との関連について、調査結果を紹介することにする。
 この断簡は、料紙斐紙まじり楮紙一紙、縦二八・二センチ、横五五・七センチで、「无礙菴」の蔵書印が紙面に捺されている。すなわちこれによって今泉雄作(一八五〇—一九三一)の旧蔵であったことが知られるが、その後、井上幾多郎を経て、守屋孝蔵(一八七五—一九五三)の手に移り、また昭和二十九年四月、京都国立博物館に同家より寄贈され、今日に至るのである。
 まず文書の文面を紹介すると次の通りである。現在は「造仏所作物帳」の方が表として成巻されているが、この造仏所作物帳は反故とされ、写経所に於て現在裏にある「常本充紙帳」が書かれたのであるから、造仏所作物帳が第一次文書で、
 ○造仏所作物帳(断簡) 京都国立博物館所蔵
  鈴六百五十六口
  緋〓三丈
  緋糸八両
  黄糸六両
  練糸七両
  生糸九両二分
  漆三升八合
  掃墨一升八合
  馬髪廿八斤
  楠二枝 各長二尺四寸径七寸盖宗木料
 ○常本充紙帳(断簡) 京都国立博物館所蔵
丈部子虫 七月廿二日充黄紙〓枚 (見用卅九枚)反 上一枚充林浄道 法花玄賛料 大床所充「*先給了」 九月廿九日酒主
自十六年閏月中受紙百廿七張 正用百廿六空一 勘人成 「*七月給」
○右ノ一行ハ文字ヲ黄抹シタル上ニ書ス、
十月十七日充白紙六枚 十九日充白紙廿枚 合受白紙廿六枚 正用九枚返上十七枚 已上順正論疏料
廿一日(八)充黄十九枚 廿七日黄廿枚 卅日返黄十九枚 合受黄紙卅八枚 正用十九枚返上十九枚 已上一切経要集料
十一月六日白廿枚 十二月一日白廿枚 五日白廿枚 合受白紙六十枚正用五十三返上七枚 已上楞伽経疏料 「*□□□□」
十日充白七枚 又(白)黄廿枚 十二日白廿枚——合白〓七 正用十三反上十四未給欠廿 四分律第五料
(白緑)「自十月十七日迄」(白緑抹)勘人成検人成(白緑)「給十二月」
呉原生人 六月十五日充黄紙一巻(大床所充)用法花玄第四巻料 見用十九返一張 此写残者便充大友小田次
 九月廿九日酒主「*先給」十六年二月中受紙五十二張正用五十一張空用一勘人成「*七月給」
 幢頭居鳳形二翼 各高三尺八寸並咋玉幡
  身以桐楠彫作塗漆抑金薄而塗金漆
  羽以銅裁作裏塗金表塗丹
  尾以銅裁作表塗金裏抑金薄

『東京大学史料編纂所報』第12号